2009年6月4日木曜日

落語的学問のすすめ


著者:桂文珍1948年12月10日〜


関西大学での「国文学史」の講義記録です。

手放しに面白い!講義そのものが極上のエンタテインメントですよ、これは。

上方落語についてわかるだけでなく、人の業を大らかに受け入れて笑いに変える落語的発想が、豊かな語彙のひとつひとつに満ちております。

とんでもない才能だなあと改めて感じ入りました。

悲しみよこんにちは

著者:フランソワーズ・サガン1935年6月21日2004年9月24日
フランス小説家脚本家および映画台本作家。

恥ずかしながら、この年になって初めて読みました。エヘヘ。
18歳の時に出版され、世界的なベストセラーになったそうです。

この作品のすごいところは、やはり作家自身の観察眼の鋭さでしょうか。

思春期の恐ろしく不安定な情緒に身を委ねながらも、
委ねている自分を恐ろしく冷静に子細に観察している。

そして、
その時見たもの、
その時感じたもの、
その時考えたこと、

これらの思春期エッセンスを、
「最愛の父の再婚を妨害する」という骨太のシナリオにちりばめた。

そして生まれたのが世界的ベストセラー「悲しみよこんにちは」。



以上、私の勝手な推測でした。

しかし案外、小説ってこの法則に則ればでき上がるのかもしれないなあと、ちょっとヒントを得たように思った一冊です。






春になったら苺を摘みに。

著者:梨木香歩

童話・絵本作家にして小説家。
人を受け入れる大らかな姿勢と芯の剛さ、やわらかで鋭い感性。
彼女の作品は、彼女の美しい生き方を写し取ったかごとく、美しくて、剛い。

彼女の英国在住時代のエッセイ集。
言葉は違えども、人は人である限り、国境を超えて通じ合うことができるとの思いを
新たにさせられる。

人と会い、通じ、刺激され、生まれるサムシング。
自らを耕す出会いは、半径50m内にあるわけではないのだ。
揺るぎない自信を持って発信できる何かを自分の中に構築できているならば、
広く世に問うべきなのかもしれない。

2009年5月26日火曜日

本当はちがうんだ日記。

著者:穂村弘

「ダメー!
(それでも生きていかざるをえない!)」

という筋肉少女帯の歌詞の一節を彷彿させる、
己のダメぶりを反省と共に描き出すエッセイ集。
あまりに不器用で正直で、
「ダメな人だあホントに」と思いながらも共感してしまう。

本当にダメな人だったら、
ダメな自分すら見つめることはできません。

2009年5月25日月曜日

わくわくする数学。


著者:ロブ・イースタウェイ
イギリス人。作家兼講師。BBCラジオの番組にも登場し、水平思考や数学、記憶など様々なテーマについて語る。ロンドン在住。

人間の「直感」とか「経験」がいかに怪しいか、を見つけ出すのが数学者の楽しみだそうです。
この本は、日常のありふれた風景を、いろんな数学パズルで鮮やかに解き明かして行きます。

数学のための数学、という感もありますが、視野の広げ方が勉強になる一冊であります。



2009年5月13日水曜日

新しい歌をうたえ。

著者:鈴木光司(1957〜)
静岡県立浜松北高等学校、慶應義塾大学文学部仏文科卒業。デビュー作の1990年の『楽園』は、1万年という時を超えた男女の愛を描く壮大なスケールの小説で、日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を得た。『リング』は横溝正史ミステリ大賞最終候補まで残り、映像化され、ホラーブームの火付け役となった。その続編である『らせん』は1995年(平成7年)、第17回吉川英治文学新人賞を受賞。(wikipediaより)


もうこのタイトルに尽きます。
新しい歌は、一人ひとりの中にあるのです。

ドリアン・グレイの画像。

著者:オスカー・ワイルド(1854〜1900)
アイルランド出身の作家・劇作家。著作に「サロメ」他。


希代の美青年ドリアン・グレイ。純粋無垢な青年だったドリアンは、とあるきっかけで出会った画家に乞われ、一枚の肖像画を残した。その肖像画にはドリアンの美貌がそっくり写し取られていた。しかしドリアンが大人になるにつれて、自身の美貌に溺れて悪の快楽と欲の誘惑に浸るようになり、その度に肖像画の方の表情だけが残忍 さを増して行く、というストーリー。ドリアンの肖像が醜悪になっていく反面、ドリアン自身の肉体の若さと美貌と純粋さは保たれるため、彼の悪事はエスカ レートしてついに……。


まずなんと言ってもこの着想の面白さ、です。この見事な舞台装置に、誰もが思春期に通過してきたであろう自我の目覚めと悪への堕落が、エスプリに富んだ語り口と克明な描写力で描き出されます。

そして、もうひとつのテーマとしてワイルドが本書で繰り返し語るのは、現実社会や道徳を超えて存在する究極の「美」や「芸術」の価値。

「悪徳も美徳も、芸術家にとって芸術の素材料に過ぎない」

言っちゃったよ!
美なるものに見入られた人間の、現実社会への宣戦布告とも取れる不遜な発言です。しかし、美を賞賛する一方で、人間の堕落や道徳観もしっかり描くバランス感覚。

そもそも、道徳と美は、互いに対角線上にも延長線上にもない価値観だと思うのだが、道徳と対比させることで美なるものが存在感を増して行くという描き方はありだなあと思いました。そして、それこそがストーリーテリングの面白さなのかもしれません。

2009年5月11日月曜日

言葉で世の中を動かそう。

著者:谷山雅計


課題
『古本屋を若者にもっと利用してもらうためにキャッチフレーズを書いてください』
15分で3つ書くように言われた。全員分を回収し、30分後谷山さんが戻ってきた。

解説
なぜこの課題を出したか。それは考えやすいから。古本屋は不人気。あまり使ってくれない。それはハードルがあるから。そのハードルはどんなハードルでどうやったらそのハードルを越えられるか。こう考えていくと、コピーを考えるきっかけはつかみやすい。逆に、今人気のものをもっと人気にするコピーを考えるのは難しい。

広告コピーの定義
まずは広告コピーの定義から。 広告コピーとは人を動かすため、モノを動かすためのコトバである。 笑わせる、驚かせるのは人を動かすための手段。 人を動かす意志を持った言葉が広告コピー。

よくない例(言葉遊び系)
・心くすぐります。コショ、コショ。
・心を満たすFULL本屋

これらの何がダメなのかというと、意志が感じられないこと。
楽しませようとはしているが、それだけでは人を動かすことはできない。
ただし、音楽とかを使って連呼したり、分析した上で言葉遊びで考えたものはうまくいくこともある。

描写しているだけ
・セピア色の本
・OLD IS BEAUTIFUL

これらは描写しているだけのコピー。
誰でも知っていることを言ってるだけ。
こういうことは皆知っているけど、それで古本屋に行ってない。
だからこういう言葉をコピーにしても人は動かせない。 コピーとは描写じゃない。解決である。 広告を出す前と、広告を出した後で、古本屋の見え方が変わったかどうかをチェックする。

ウソが入っているコピー
・前の持ち主の涙のあとが・・・
・前の持ち主の引いたアンダーラインが・・・

これらはウソをついている。 涙のあとは存在しない。きれいなフレーズで決まり文句になっているだけ。 アンダーラインもあると逆に使いにくい。 コピーを書くときは、そのコピーは本当なのか?と問いかけてみる。 ウソを平気で書いていては、人を動かすための言葉にならない。

いいコピーを書くには?
課題をあぶりだして、解決策として言葉を使う。 なぜ使わないのか、どうすれば使うのかを考える。 古本屋のマイナス面とプラス面を考えてみる。

マイナス
・そもそも本を読まない
・安い 汚い。
・若者は潔癖症
・普段の生活動線に入ってない。
・出会いがない。
・入りたがらない。

プラス
・知的なイメージ?
・個性があるイメージ?
・他の古いモノは人気。骨董品とか。
・似た業種は人気。フリマとかマン喫とか。


いいコピーの例
・ 12月「大掃除」と3月「引越」は、古本屋のセールです。
・合格者が使っていた本、続々入荷。
・村上春樹フェアやってます。

古本屋にニュースを作ろう。古本屋はいついっても同じ気がする。その先入観を打破する。
情報性をプラスすることで、人を動かすことができる。

「新しい」を具体的に言う

・週刊少年ジャンプ、ほぼ水曜日発売
・ハリポタもさおだけ屋も、一週間後にはやってきた
・ベストセラーはその分、売りに出るんです。

古本屋とはいっても、新しい本も結構ある。そこをアピールし、皆が知らない価値を知らせることで人を動かす。

「キレイ」を具体的に言う

・全本、殺菌抗菌済
・本をきれいにする機械も日々進化

古いというマイナスをプラスに変える
・お風呂で読書する人に
・ちょっと前のゲーム攻略本あります
・楽譜なんかは任せてね(楽譜は時がたっても絶対に変わらない)
・地球の歩き方なんて毎年そんなに変わりません
・文庫版を待つか、古本屋に行くか
・買おうと思っていた雑誌が次の号になっていた
・「何だ、これ(笑)」あります!
・どうせ解説しか読まない読書感想文に新しい本はもったいない

こんな本、こんな時に。を提示する。


マイナスをプラスに変えるという切り口で人を動かす。

・ネーミングがいまいちなので「再本屋」にします
・バックナンバー専門店
・フルホ

呼び名を変えてみる などの具体性でせめる。漠然としていたらなかなか人を動かせない。

売る、という視点からアピールする

・アコムの前にお電話下さい
・今日は燃えるゴミの日、あなたは財産を捨てました

「本は古くなっていない(性能が落ちてない)」を言う
・図書館の模倣犯は75人が読んでます。古本は1人しか読んでません。
・本って古いと何か変わるの?
・あらゆる中古品の中で、本は最も新しいと思う
・異常に安い中古車は心配だが、異常に安い古本は嬉しい

まとめ
悪いコピーは、古本自体を変えようとせず、若者が古本に合わせるようにしている。こちらの都合で相手を変えることはできない。相手の都合で、こっちのいい点をアピールしていく。こういう視点を持つことが必要。

この講座で得られること
ライティング力発想力企画力人脈力
例えば、お刺身を「死んだ魚の肉」と表現したらどう感じるか。

表現を変えるだけで与える印象が全然変わってしまう。いかに相手の心に響いて相手を動かせるかがポイント。

自分の土地に駐車してほしくないとき、どういう看板を立てるか。

・無断駐車禁止
・山口組所有地

どっちが駐車をしなくなるか。後者の方が駐車しなくなるだろう。

コピーライターが求められている理由
コピーライターは、企業の課題解決のために言葉・アイデアを使う人。 企業は最近どうすればモノやサービスが受け入れられ、人に集まってもらえるか、わからなくなっている。 コピーライターが求められる時代になった。

コピーライターは、普通の人であることが大切。
若い感覚を持って、いい意味でミーハーで、ブームにのっかりたい人が向いている。

コピーライターにはどうすればなれるか


キョロキョロしよう・・・観る
乗り物は人の宝庫 観察の場として電車は最高。偶然座った向こう側の人はどんな生活をしているのか。
年齢は、職業は、家庭環境は、部屋の様子は、性格は、恋愛歴は、趣味は、今欲しいと思っているものは。その人になりきって想像してみる。
・デパートは商品の宝庫 一階から最上階まで、全売り場に行ってみる。行ったことのない所ほど念入りに。知らない商品は、店員に取材する。

本の題名はキャッチフレーズ
映画、演劇は月5本とかノルマを決めて見るようにする。

たくさん広告を見る
新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、駅周辺のポスター、中吊り、店頭POPなど、世の中広告で溢れている。これはすべて教材。 どんな商品が、どんな広告をしているか 競合の広告と比べてどうか。今までの広告展開との違いは?なぜこんな表現になったのか。自分だったらどうしたいか。問題意識を持つようにする。

雑誌は種類を豊富に
創刊号は全部買う。女性誌、男性誌、子供向け、熟年向け、できるだけ読者層の違うものを見る。外国のものにも目を通す。月10冊以上を目標に。

新聞はパターンを変えて読む
読む順番を逆にしたり、いつも読んでない欄を読んだり。

メモ帳、カードは肌身から離さない
3秒以内に取り出せるところに入れておく。歩きながらでも書ける紙とペンを持つ。

消費者を尾行する
店内での買い物行動を観察し、なぜそれを買ったか考え付くだけの理由をあげてみる。 先入観を離れ、客観的に観察する 親とかおばさんとか高校生とか、観察対象は無限。

フムフムする・・・聞く
初対面の人から、素直に聞けるか セールスマンや店員と話をして、どのように説得しているかを聞く。 買う気があるとき、モノはよく見える その商品に対する店の評価、メーカーの評判、客筋の特性など、うるさいくらいに質問する。それが欲しくなった自分の気持ち、店員のセールス・トーク、会話内容をノートなどにメモ。

自信作、人に見せたらまるでダメ
よくあること。めげずに批評してもらう。聞きっぱなしにせず作品に生かす。 人に見せる心得:説明するな。反論するな。

ワイワイする・・・話す
人の作品にめちゃくちゃケチをつけてみる。 一人でやっても友達とやってもいい。

ムチャクチャする・・・熱中
無我夢中になれるものを一つは持つ。 好奇心で夢中になり、感動し、熱中する。洒落たコピーが書きたかったら生活をシャレる。

自分で選ぶ、今月のベスト10
本、映画、テレビ番組、歌、演劇、コンサート、デパートの催事、広告、飲食店、ニュースなど。 手紙を書く 一日、一エッセイ。書く習慣をつける。 感動したこと、関心を持っていること、初めての出来事など、エッセイ風に書いてみる。

引出をたくさん作る
何を書いても、描いても、何に書いてもいい。

挑戦!50案コピー
ワンテーマで、キャッチフレーズ50案に挑戦してみる。49案ではダメ。

写す
好きなコピーライターを一人選び、その人の作品を徹底的に模写する。一字一句、点や丸も正確に、原稿のマス目に写す。

スクラップの注意
切り抜いたものには、一言、何か書いておく。やたらに分類しない。する場合は大雑把に。6か月、一度も見なかったら思い切って捨てる。

コピーライターのためのコラム
阿久悠さん
「作詞家もコピーライターも同じ、その分野の過去50年の歴史を把握すること、そして少なくとも3年先を予測する能力を持つことが必要。かつての事件、流行語、ヒット商品などを知っておくこと。 1963年、新幹線が走り始めたとき、窓が開かないから、東京駅のホームでの恋人たちの別れが変わるなと思いました。電話の普及は『すれ違いドラマ』をなくしました。 ですから、新商品が出た、すごい会社だなぁ、では駄目。それで暮らしはどう変わるか、普及したらどうなるか、を考えるのがコピーライターじゃないかしら。世の中の道具が変われば、人間の生活と情感が変わります。私たちは近未来予測のために、生活感と生活観察の両方が必要なのです。 私は日誌を18年間つけてきた。その日、何に興味を示したかを全部書くのです。1日が終わって、どんなに疲れていても、1日分の世界の出来事を調べて書く。 この職業は常に、社会の動きにどう反応するかが問われているのです」

2009年5月8日金曜日

スティル・ライフ。

著者:池澤夏樹(1945年〜)北海道帯広市生まれ。
埼玉大学理工学部物理学科中退。1975年より3年間、ギリシャに在住。


(冒頭の文章より引用)

彼は手に持ったグラスの中をじっと見ていた。水の中の何かを見ていたのではなく、グラスの向こうを透かして見ていたのでもない。透明な水そのものを見ているようだった。

「何を見ている?」とぼくは聞いた。
「ひょっとしてチェレンコフ光が見えないかと思って。」
「何?」
「チェレンコフ光。宇宙から降ってくる微粒子がこの水の原子核とうまく衝突すると光が出る。」


この「彼」という人は、上の一説にもある通り、宇宙や星、山や地形といった自然の理を常に心のそばにおき、片や現実世界では「公金横領」という大犯罪に手を染めていた。

しかし決して金や欲に溺れることはなく自然の営みのごとくただ心静かに淡々と生き、住居を転々と変えて行く。彼は自然の一部だから名前も家も持たない。何者にも縛られないのだ。

自然の理との調和を図り、淡々と生きている「彼」の存在には、憧れを持つ人が多かろうと思う。きっとこの作者、池澤さん自身も。

「大事なのは、山脈や、人や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界の呼応と調和をはかることだ。たとえば、星を見るとかして。」


そんな池澤さんの着想の源をたどってみれば、やはり我々全員のまわりにある自然なんだろう。そして、その自然への畏怖の念が、池澤さんに「作家」としての視点を与えているのだと思う。

池澤さんの手にかかれば、自然は無味乾燥なものでも、表層的なエコロジーの対象などでもなく、本質と根源を体現する存在としてその輝きを放っている。そして、池澤さんが自然観察を通じて得た「俯瞰」の視点により、人間を含む全存在が、否定も肯定もされず、みずみずしく精緻な筆致で淡々と描き出されて行く。

この池澤さん同様に、科学的思考から身の回りの物の根源に迫る作家、梨木香歩さんの作品にも、こんなテーマが貫かれている。
「日常を深く生き抜く、ということはそもそもどこまで可能なのか」


最近の私は、いろんな作家の「着想の源」に興味があります。本を読むということはつまり、作者それぞれの視点と立ち位置を知るということなのかなとも思います。何をするにも「視点」と「感じ取る力」から始まるんですものね。

2009年5月7日木曜日

鏡を見てはいけません。

著者:田辺聖子(1928年3月27日〜)小説家兵庫県伊丹市在住。伊丹市名誉市民


語彙の豊饒さに圧倒される一冊です!日本語はここまで自由になれるのですなあ。
それは、田辺さん自身が言葉に敏感である一方、人間心理への鋭い観察眼があってこそ。

借り物の言葉では表現できない人の心の動きを、正確に、時には無情に、客観的に捉えられるからこそ、そこに新しく響く言葉が生まれるのですね。

「木戸サンは一瞬、とても得意そうな色を、ちらと目に浮かべた。とびきり賢い才女の一人である木戸サンも、優越感をくすぐられる誘惑に克てなかったのだろう。」

キャーこの鋭い観察眼!!惚れ惚れするわ!!


あ、ちなみに田辺さんの本には必ずおいしそうな手料理が出てきます。手をかけた料理の大切さが、じんわり伝わってきてほっこりします。読後は必ず料理に手をかけたくなりますよ。

2009年5月4日月曜日

忌野旅日記。

著者:忌野清志郎

(ひとくちメモ)
'80年代末期、私が当時購読していた「週刊FM」で、忌野清志郎が自筆イラスト付エッセイを連載していたのでした。この本はその連載をまとめたもの。「面白い人だなあ。」それが清志郎との初めての出会い。そして同じ時代を共有して2009年5月2日。あの声は、ギターは、言葉は、良心は、怒りは、哀しみは、やさしさは、赦しは、志は、精神は、光は、魂は、永遠に奪われた。次ぐ我々は何をすべきか。合掌。



話その3
ソウル・ブラザーJBのヒミツを見てしまったぜ


 さすが、冬だ。みなさん、毎日が寒いですね。まぁ、そのへん、ウチの暖房設備に問題はないんだが、外に出る時がさすがにつらい。冬も手を抜いてないぜ。
 さて、トートツだが、その寒い真っ盛りに、ジェイムス・ブラウンが来日するというホットなニュースが、カイロ代わりに街中に飛び交っているのを、もちろん御存知でしょーね。
 もー、オレの幸運な思春期にその足跡をくっきりと残し、今もなお相変わらずの活躍を続けているジェイムス・ブラウンの来日を心から祝し、JBについて熱い思いを話すぜ。聞いてくれ。

 思春期に入った頃のナイーヴなボクは、ダンサブルなJBにまるであこがれていた。JBはその頃からオレのアイドルだった。JBといえば派手な演出の『ガウン・ショー』だが、何年か前、RCの武道館ライヴでも、あの『ガウン・ショー』をやった。いまでもずっとオレのアイドルだぜ。
 7年ほど前の来日の時、ある音楽雑誌が、“JBとオレの対談”という、ものスゴい企画を企ててくれた。まぁ、名は伏せておくけど、まったくその頃は優秀な音楽雑誌がはびこっていたよ。
 対談の当日、オレと当時のRCの担当ディレクターは、JBを目の前にしてかなりコーフンしていた。JBはすごく気安くて、あのみるからに固そうな体で豪快に笑っていたよ。オレは記念にRCのダンスナンバーのシングル『ステップ』を持って行った。実は『ステップ』のジャケットを見ればわかると思うけど、オレのあのオールバックやタイトなスーツは、昔のソウルマンたちのスタイルを意識していたんだ。
 『ステップ』を手に取ったJBは、ジャケットのオレを指さしながら、な、なんと、こともあろうに「オレの若い頃そっくりだよ」と言って、あの人なつこい笑顔を返してくれたんだ。なんてスゴい出来事!
 それだけじゃない。JBは、さっきから横を離れないボディガードのマッチョマンにもジャケットを見せて「どうだい、そっくりだろ?」と同意を求めた。すると、「そうだね、ほんとに良く似てるよ」と、彼も微笑んだ。おー、オレはカンドーしたぜ。まったくイイ雰囲気だ。そ、その上、なんとJBは、オ、オレにむかって「キミはソウルブラザーNO.2だ」と、レコードに“SOUL BROTHER NO.2”と書いてサインしてくれたんだ。『ソウルブラザーNO.2』、なんてイイ響きなんだ。ホントに今思い出しても目頭が熱くなるぜ。
 そんなわけで、対談はスムースに進み、最後にオレは、明日のライヴでは「トライ・ミー」を是非聞きたい伝え、そして楽屋にも顔を出すことを約束したんだ。
 さっそく次の日、チャボと友人のJBのライヴに出かけた。JBのまったく年齢を感じさせない動きとキョーリョクなステージに魅了された。確か、当時のJBは50歳くらいだっただろう、ホントに彼のダンスはスゴかった(電車にでも乗ったらまわりのオヤジを見てみろよ。50歳っていったら、カチョーだのシャチョーだのって、ネクタイしめたヤツらとJBは同じだけ年を重ねているってわけよ。まったくキョーリョクだよ)。
 そして、こともあろうに、なんとアンコールには「トライ・ミー」を演ってくれたんだ。
 ステージが終わり、さすがに興奮ぎみのオレは、チャボとエーゴのわかる友人と連れだって、ボクのジェイムスに会いに楽屋に向かった。なんせ、オレはJBの若い頃そっくりのソウルブラザーNO.2だからね。
 楽屋のドアの前には、立ちはだかるように例のボディガードのマッチョマンがいた。オレは、昨日の彼の「良く似てる」と言ったその時の笑顔を思い出しながら、挨拶をした。「こんにちは、昨日はどーも」って感じで。それから「ジェイムスに会いたいんだが」と、つけ加えたんだ。
 バカでかいボディガードは身動きもせず言った。
「お前は誰だ?お前なんか知らないぜ。さっさと帰ってくれ」
えっ、ええー?
そ、そんなぁ。
 そして数分間、ボクたちのキボーは虚しく、とうとうソウルブラザーに会わせてもらえなかった。あー、もうこれから黒人は信じないぜ。
 オレはその時、少しだけ開いていた楽屋のドアから中を覗いた。そして一瞬、自分の目を疑った。なんと、その隙間のむこうでジェイムスは、よく美容院にあるいわゆる“オカマ”に入っていたのだ(御存知でしょーが、JBのヘアスタイルは黒人特有なチリチリヘアではない。日本のオバサン風ヘアに近い。きっとアイロンかなにか、熱の、そういったもので伸ばしているんだろうと、想像はしていたんだが…)。とにかく、オレはステージ直後のジェイムスの姿を見てしまったんだ。オレの頭には、少し前のステージの熱いJBの姿が浮かんだ。微かにめまいを感じながらも、さすが、偉大なスターほど数知れずのシークレットがあるものさ、と、気を取り直したんだ。
 しかし、JBがオレに与えためまいはもうひとつあった。
 後日、ある知人から聞いたんだが、ジェイムスはサインする時、決まり文句のように“SOUL BROTHER NO.2”を使うそうだ。
えっ、ええー?
そ、そんなぁ。
あー、それじゃ、いったいこの世界に、どのくらいのソウルブラザーNO.2がいるんだろーか。
 あれから、もう黒人は信じられなくなったが、あのJBのイメージを守る“オカマ”はなんともカンドーした出来事だった。
 さて、そのライヴの夜、オレはJBを思い出して、バシバシの『セックス・マシーン』となったのだが、まぁ、それは言うまでもないだろう、ハハハ。




あとがき(文庫版に収録)

やってまいりました。あとがきです。あとがきくらいは自分で書くかな。まー、編集のやつもそう言ってるし、そのくらいは自力でやるのが、人間社会の掟ってもんかも知れねぇぜ。
 なにしろ、いままではぜーんぶ、俺が、ペラペラしゃべって、それを、ゴーストライターにまとめさせてただけだからな。(後略)

忌野清志郎

クリエイティブ合気道。

著者:箭内道彦
1964年福島県生まれ。博報堂を経て2003年「風とロック」設立。


「ひとりにひとつずつ、かけがえのない個性」。そんな哀しい教育の脅迫を我々は受けて育った。オリジナリティーへの幻想は、クリエイターにとってときとしてまったく無用の長物。無理矢理決めつけた根拠無き「個性」が自身を縛り、さらには相手を不幸にする。
自分探し?自分なんていらない。四六時中全方位最大限の可能性に自らを開放し、いかに常に真白な媒体であり続けられるか。それがクリエイティブ合気道。
敵は360度に潜む。クリエイティブは作品ではない。やりたいことは発注者の中にある。クリエイター自身にやりたいことは何も無い。否、あってはならぬ。
ただひとつあるとすれば、それは発注者のやりたいことを正確に汲み、彼等の想定を超える膨らませ方で鮮やかに返すこと。まさに「無」の境地。それがクリエイティブ合気道。

嗚呼目を閉じ、耳を澄まし、
あくまでも柔らかな構えの中
明鏡止水の境地にて臨みたい。
しかしそれは決して
無責任にイエスマンであれという話ではない。
自己否定を重ねフレキシブルに。
リアルタイム。
いまこのときに何が必要か。
いまこの場所に何が似合うか。
「こだわり」などという怠惰な目隠しを捨て、
力を抜いて「いま」に全身を委ねよ。

と、ここまで一気に書いたところでどこからともなく聞こえし声。
「それってただの行き当たりばったりじゃないか?」
そんな声すら否定しない。それがクリエイティブ合気道なり。

2009年5月3日日曜日

日本ぶらりぶらり。

著者:山下清(1922−1971)
貼絵画家。養護学校八幡学園で貼絵を習い急速に才能を伸ばす。40年、施設を飛び出したあと、放浪・帰園を繰り返した。脳溢血で死去。


「(中略)…癖はなかなかなおらないもので、それはどうしてかというと、ぼくは放浪の癖がせんにはあって、やめようと思ってもがまんができなくなってすぐでかけてしまったので、やっと近頃放浪の癖がなおったようです。ぼくはことし満で三十四才で、十ぐらいの小学生が「おっさん」とよんでもおかしくないということですが、よばれつけないことをいわれるとちょっとはずかしいので、小学生に「山下のおっさんですか」といわれて変な気がしました。
 すると小学生が「おっさんは絵がうまいんですか」というので、自分のことはよくわからないので「よくわからないだ」というとみんな笑うので、今度は小学生が「どうしたら絵がうまくなるんですか」と聞くので、これはなかなかむつかしい問題なので「ちょっとむつかしいだな」というと小学生が笑うので、ぼくもちょっとおかしくなりました。
 どうすると絵がうまくなるかというと、ほんものそっくりに描けば写真とおんなじだといわれるし、ほんものと違って描けばうその絵だといわれるので、景色を描くときはその特徴をあらわせばいいので、はじめて見る景色はなにが特徴なのかよくわからない時はよその人にこの景色はどこが特徴ですか聞くと、聞く人によっていろいろちがうので、よその人がこの景色は岩が特徴だといったので、岩を見物してからもう少し歩いてべつのよその人にこの景色はどこが特徴ですかと聞くと、大きな木がたくさん生えているのが特徴だといったので、木を見物してからもう少し歩いてべつのよその人にこの景色はどこが特徴ですかと聞くと、景色というものは全体に特徴があるもので、そのわけをいうと、たくさん見物にくる人がみんな自分の気にいったところを感心して帰るので、どうしても特徴を聞かせてくださいとうと、まあ人がたくさん見物にくるのが特徴だというので、ぼくは自分のすきなところだけをおぼえていて、学園に帰ってから貼絵にするのです。」

テレビドラマの「裸の大将放浪記」では、放浪先で絵を描き、さまざまな感動を残すストー リーとなっていますが、実際の放浪ではほとんど絵を描いていません。旅先で見た風物を自分の脳裏に鮮明に焼きつけ、実家や八幡学園に帰ってから自分の記憶 によるイメージを描いていたのです。数ヶ月間、時には数年間の放浪生活から帰った清は、驚異的な記憶力により自分の脳裏に焼きついた風物を鮮明に再現して いたのです。しかも、山下清のフィルターを通したイメージは、実物の風物より色鮮やかで暖かい画像となり、それが独特の貼り絵となっていったのです。

彼の日記にも、そのことが書かれています。
「ぼくは放浪している時、絵を描くために歩き回っているのではなく、きれいな景色やめずらしい物を見るのが好きで歩いている。貼絵は帰ってからゆっくり思い出して描くことができた。」

2009年5月2日土曜日

内気だけが罪。

著者:穂村弘(ほむら・ひろし)
1962年北海道生まれ。歌人。
2008年「短歌の友人」にて第19回伊藤整文学賞<評論部門>受賞。


「マスター、最近ノダちゃん顔見せてる?」
 お店に入ってくるなり大声を出すひとがいて、びくっとする。それ、合ってるのかなあ、と訝しい気持ちになる。でも、誰もそうは思ってないようだ。「マスター」も「このところお見かけしませんね」と自然に応えている。じゃあ、これが普通なのか。多分そうなんだろう。だって、そのお客さんには沢山の友だちがいて仕事もばりばりやって家庭も営んで趣味も充実している(その後の数分間で本人が語った言葉より)らしいのだ。
 でも、私には無理だ。「マスター」「ノダちゃん」「顔みせてる?」のなかのどれひとつでも、口に出したくはない。ただ、何故そんなに嫌なの、と訊かれるとうまく説明できない。単なる自意識過剰だろうか。そうは思いたくない。世界とか他者とかコミュニケーションに対するズレがまず先にあって、一瞬ごとに痛みを感じるので、結果的に自意識過剰になっている、と思いたい。もともと内気なわけじゃなくて、波長がズレているこの世界では、うまく生きることができなくて心を削られるから萎縮してしまうのだ。
 しかし、この結果的な内気さは致命的だ。いや、現実世界のなかでは、内気だけが致命的なんじゃないか。それ以外のどんな弱点や欠点があっても、本人が怯むことなく一定量の活動性を維持できれば、「マスター、ノダちゃん」の彼のようにちゃんと自分の居場所をみつけて機能することができるのだ。
 以前、或るトークイベントのとき、会場のお客さんに向かってこんな質問をしたことがある。「このなかで好きなタイプはヤクザという女性は手を挙げてください」
 全く手は挙がらない。いなーい、いるわけなーい、という雰囲気で一杯になる。その場に十倍の人数の女性がいても結果は同じだったかも知れない。だが、と私は思う。現実のヤクザには必ず女がいるではないか。大抵は美人で、かつ複数いたりもする。これをどう説明するのか。私にはわかる。ヤクザは内気ではないからだ。
 好みのタイプはヤクザというひとが仮に全女性のなかの0.001パーセントだとしても、これに全人口の半分を掛ければ相当な数になる。そして、ヤクザはヤクザであることを常に一貫して外部にアピールし続けている。これが重要なのだ。
 同様に「マスター、ノダちゃん」なひとは、いつでもどこでもお店に入ってきた瞬間に「マスター、ノダちゃん」なひとであることがわかる。だから、それを繰り返すうちに必ず波長の合う他者と出会って、自分の居場所をみつけることができる。
 一方、店の片隅で「それ、合ってるのかなあ」と心のなかで思っているだけの私がどんな人間なのかは周囲の誰にもわからない。仮に「マスター、ノダちゃん」な彼よりも私の性質の方が多くの他者に好ましいとしても、結果的に内気であるということが、世界との出会いの可能性をゼロにしてしまうのだ。
 どんなキャラクターであっても、この世のどこかには居場所がある。電車のなかでみかける説教好きなセクハラ酔っぱらいおじさんも、ちゃんとネクタイを締めて結婚指輪をしているではないか。でも、内気だけは駄目。伝わらない心を抱えていながら、どうすることもできない。時間だけがどんどん過ぎる。だからこそ内気なのだ。
 そんな或る日、私は心を決めた。そして様々な原稿のなかで、「私の心は硝子のように壊れやすい」とか「ベッドで菓子パンを食べる」とか主張し始めた。だって、ヤクザはひと目でヤクザってわかるけど、「壊れやすい」とか「ベッドで菓子パン」とかはひと目ではわからない。云われなければ、永遠に誰にも気づかれないままなのだ。新聞や雑誌にそんなこと書きまくってどうかしてるんじゃないの、という声も聞こえてきたが、私は怯まなかった。いや、怯んだが、どうかしたままだった。
 その結果、初対面のひとに挨拶すると、「ああ、あの、ベッドで菓子パンを食べる……」と云われるようになった。みんなにこにこしている。やっぱり、と思う。「ベッドで菓子パンを食べる」人間が好きなひとも世界には存在するのだ。
 だが、他者の笑顔と引き替えに、私は真の内気さを失った。「私の心は硝子のように壊れやすい」というアピールは、本当に内気な人間にはできない。でも私はやった。これ、合ってるのかなあ。不安だが仕方ない。望み通りになったのだ。